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2011年11月10日(木曜日)

11月10日

カテゴリー: - fujitasougou @ 13時16分06秒

 知らなかった。

 私は、宮城県の誇る支倉常長は、伊達藩から派遣されたローマ使節団の一人で、位の相当高い侍で、ローマで歓待され華々しく帰国した英雄だとばかり思っていた。

 しかし、遠藤周作の「侍」という小説によると、支倉常長はいわゆる「召出衆」といって家格の低い者で、その他の使節団に加わった者すべて重臣はいなかったことから、支倉らは「伊達藩の捨石」にすぎなかったのではないかということである。

 1613年、エスパニア人使節の船が途中の嵐で日本に漂着し、その使節をエスパニアに返すため、月の浦で「サン・ファン・バウティスタ号」と呼ぶガレオン船を作って、それに海外貿易で利を得ようという日本の商人も乗り込んだ。

 この頃、伊達政宗もノベスパニア(メキシコ)と有利な貿易をしようと考えて、侍を同乗させたが、「身分低き召出衆ならば道中、海に溺れ、見も知らぬ南蛮の国で病に倒れても一向差し支えないからであろう」(文中より)。

 支倉たちは、ノベスパニアからマドリード、ローマまで行き、帰国するまで2年半かかり、その間「お役目を果たすのに都合よし」と考えて、キリシタンの洗礼を受けたが、丁度その頃(1614年)徳川家康は、「キリシタン追放令」を出したため、支倉らは帰国後処刑された。

 支倉常長は、月の浦港から日本を後にしたその日から日記をつけ始めたが、彼の死後、彼の領地内に保管されていた日記は、この旅に関わるほとんどすべての資料と共に藩当局の手によって抹殺されてしまったと言われている。「侍」は、もちろんフィクションではあるが、少なくとも支倉常長のたどった足跡及びその顛末は事実であろう。

 小説を読むことによって次々と新しい発見がある。

 吉村昭の「光る壁画」を読んで、胃カメラを初めて実用したのは日本人だったことを知った。

 私の夫は、支倉常長が処刑されたこと、胃カメラの発明など「なんだ、そんなことも知らなかったのか」と私の無知を笑うが、この歳になっても新しい驚きをもたらしてくれる読書は、私の大きな趣味だ。

 仕事で出張することが多く、列車での行き帰りは専ら法律には関係のない読書である。おかげで月に5〜6冊は読むだろうか。

 自称「歴女」である。


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